私は書評が書けない

本当に書評が書けない。書評が書けないという文章は頭痛が痛いと似ているような気がする。

タイトルの通り、書評が書けない。実際にはその単語が使えなくなったという表現が正しい気がする。

根本にあるのは、本にしろ漫画にしろ映画にしろ、コンテンツに対する敬意というかある意味畏怖みたいな感情が最近になって出てきたことだ。

ヒップホップが好きでフリースタイルダンジョンの感想をボロボロと書いていたのだが、 こんだけ感想書いてて自分自身ヒップホップしてないんじゃないか、自分自身の中のヒップホップって何なんだみたいなことを考えていたら自分の趣味の範囲にあるコンテンツ全体までその考えが広がってきて、結局自分が趣味としているモノに対して自分自身は自分の表現を使って何一つ作れていないのに、思いがある。

また、書 という評の意味合いが評価という上から目線のような気がしてしまい、上の思いと相まってなおのこと使い辛い。自分の記事のタイトルに 【感想】という表現を使っているのは、書評という単語の重みに耐えられないからである。

RGTO testoという曲の中で 「SALU君には頑張って欲しい」は?お前が頑張れ似非評論家 というフレーズがあるが、感想という単語を批評という言葉から逃げているだけの自分がいるような気がして聞く度に喰らう。

  • 書評という単語を使わない
  • 好きなところだけ語る

という二点を心掛けてこれからも書評から逃げていく。

書評大全

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